品川区西大井で生まれた私は引っ越しで目黒区中目黒に移り、小四から小六の二学期までをそこで過ごした。この時の担任が伊藤先生(男)である。
伊藤先生が徹底させたのは「報告」。クラスで何事か起これば学級委員はすぐに先生に報告。そしてクラス全員が同じ情報を知っておけ、と言った。
朝登校すると、教室の入口にある掃除箱の上に置かれたぬいぐるみに大声で「おはようございます!」と挨拶、次にハンカチ二枚(トイレ用と給食前用)とチリ紙を見せてから入室、というしきたりがあった。
昼休みは掃除。伊藤先生が編集したBGMがスピーカーから流れ出すと、一曲目で机下げ、一分後には二曲目、掃き掃除、三曲目で雑巾がけ、という具合。私たちは懸命にやった。するといつの間にやら「五組は良くまとまっている。それに礼儀正しい」と先生方の間で評判になり、私たちは子供ながらにプライドをくすぐられてしまうのであった。

「生活表」と「漢字表」。それは学期ごとの成績表よりも重く、切実なものだった。
毎朝、ほのぼのしたホームルームなどやらずに漢字テストをした。十問出題され、すぐ答え合わせ。何問正解したか手をあげさせられる。そして漢字表に点数を記入。
生活表は、ハンカチ・チリ紙を忘れれば減点、読書感想文や俳句など自主的に書いて先生に見せると得点になる。一日一日、自分次第で立ち位置は変わっていく。
最終成績は番付で表された。横綱、十両、幕下、ふんどしかつぎ…。「あぁ、やっと大関まで登り詰めた」などと思ったものだ。
学期末が千秋楽。生活表、漢字表。両横綱になると副学級委員になる。だから学期ごとに副学級委員が五人になったり十一人になったり、その人数は変動していた。伊藤先生は、学級委員を除く残り全員が副学級委員にならなければダメだと言った。私たちはすっかり伊藤スタイルにのせられていて、「そうだ。皆、ガンバロウ」などと思ってしまうのである。

きまり事はまだまだ山ほどある。
社会の時間は先生が作詞作曲した「年表歌」なるものを覚えて一人ずつ前に出て唄う。算数で公式を学んだら、朝のしきたり(ぬいぐるみに挨拶、ハンカチ、チリ紙を見せる)に追加され、ぬいぐるみに公式を大声で言う。授業で問題を出されたら必ず手をあげる。わかる者はグーで、わからない者はパーで、とにかく全員手をあげる。等々…。
こうして私は伊藤スタイルにはまりにはまっていった。勉強が楽しいとさえ感じた。先生とクラスのみんなと喜怒哀楽を共有している感じも心地好かった。
しかし、クラス全員が伊藤スタイルにこれほどはまっていたかというと、必ずしもそうではないだろう。私がこの年になっても強烈に記憶に留めているのは、それらを突然失うことになってしまったからだ。

六年二学期の末、私は再び引っ越すことになり、今度は杉並区、松ノ木という所へ行くことになった。
嫌だ、ここでみんなと一緒に卒業したい、なんとか電車で通学させてほしい。親に頼みこむと「ただし、ちゃんと早起きするように」と、珍しく了解してくれた。そして親子そろって、その旨申し出たのだが、伊藤先生は首を縦に振らなかった。
「ダメです。すぐに転校しなさい」
すぐに転校して友達をつくらないと、中学に入って孤立してしまう。未練を断ち切って新しい社会で生きてゆけ、ということだ。ダメだと言ったらダメだろう。私はあっさり諦めた。相手は伊藤スタイル、勝てるわけがない。
「伊藤先生のバカヤロウ」私は心の中で泣いた。
結局、私は感じの悪い転校生になった。新しいクラスの先生、ほのぼのとした朝のホームルーム。伊藤スタイルと比較しては心の中でケチをつけ、しれっとしていた。素直な心も、謙虚な態度も、作り笑いをする器用さもないままに。

引っ越し、伊藤スタイルとの出逢い、再び引っ越し、伊藤スタイル、六年五組との別れ。たった三年にも満たない期間の経験が、私の記憶に深く深く刻まれている。
思い出は美化され、都合良く書き換えられてしまうものというが、それでも、私のハートに火をつけたあの伊藤スタイルとは何であったのか。多くの人が「金八先生」にはまったようなものだろうか。今の私に何か作用をもたらしているのだろうか。
あれから一度も伊藤先生とお会いする機会はなかった。この先もおそらくないのだろう。私の耳には先生の声が聞こえる。
「私と会う暇があったら、漢字をひとつでも覚えなさい。ちゃんと生きてゆくために」
《完》