José Feliciano Biography
本テキストは、私の敬愛するギタリスト/シンガーソングライター – ホセ・フェリシアーノの公式ウェブサイトに掲載されているバイオグラフィー(スペイン語テキスト)を日本語に訳したものです。日本語資料の少ないホセ・フェリシアーノの生い立ちから音楽的業績、近年のリリース作品や現在の活動に至るまでが詳細に記されています。嬉しいことに近年は来日公演もマメに行ってくれて、その神々しいオーラを間近に感じることもできるのです。
【注】翻訳当時(2014年)にホセ・フェリシアーノ公式サイトに掲載されていたスペイン語版バイオグラフィーからの和訳です。2023年現在、公式サイトのバイオグラフィーは英語のみとなっています。→ https://www.josefeliciano.com/biography
フェリシアーノ~その名は“音楽”そのもの
彼の名は「世代をまたいでポピュラー音楽に影響を及ぼしたワールドワイドな存在」と同義である。比類ない独自の方法で「異なる音楽スタイルの架け橋」となった存在。そうも言える。ホセ・フェリシアーノは英語圏のポピュラー音楽シーンに躍り出た最初のラテンアメリカ系アーティストであり、まさに彼が、今日の米音楽シーンの最前線で活躍する大勢のラテンアメリカ系ミュージシャンたちに、その扉を開いたのである。
また、フェリシアーノは「現存する最も偉大なギタリスト」として世界中の音楽評論家からも賞賛されている。「音楽界のピカソ」と言われるホセ・フェリシアーノの偉業・功績は数かぎりない。45枚以上のゴールドディスク/プラチナディスクの獲得、19回のグラミーノミネート、そしてLARAS(ラテン・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス)の特別功労賞(ライフタイム・アチーヴメント)を含む9回のグラミー受賞。
名だたるスターたちとともにハリウッドのウォーク・オブ・フェームに刻まれたフェリシアーノの経歴は、文字どおり不朽である。ニューヨーク市では彼を称え、イーストハーレムのパブリックスクール155を「ホセ・フェリシアーノ舞台芸術学校」と改称。歴史と権威あるカトリック教会は、聖パトリック教会でローマ教皇からホセに「ナイト(騎士)」の称号を与えた。また、コネチカット州フェアフィールドのセイクリットハート大学からは、彼の音楽的・人道的な貢献に対して人文学の名誉学位が与えられた。
「ギタープレイヤー」誌は彼に「ベスト・ポップ・ギタリスト賞」を与え、彼を誌上の「偉大なるミュージシャン・ギャラリー」に加えた。「プレイボーイ」誌の読者アンケートでは、ジャズ&ロックの両部門でベストギタリストに選ばれた。そして1996年には、ビルボード誌の特別功労賞(ライフタイム・アチーヴメント)に選出された。
ひっきりなしのオファーを受け、ホセは著名なアーティストたちと共演したり、世界各国の要人たちの前で演奏してきた。ロンドン交響楽団、ロサンジェルス・フィルハーモニック、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団などの有名オーケストラとの共演も楽しんできた。ワールドワイドな有名テレビ番組にも出演。自身のアルバムはもちろん、テレビや映画、舞台のための楽曲もたくさん作り出してきた。
スター誕生の瞬間
1945年9月10日、プエルト・リコ中西部の山間の町ラレスの貧しい家に、11人兄弟のひとりとして生まれたホセは、生まれながらにして盲目であった。彼と音楽との睦まじい歴史の始まりは3才の時。叔父さんの弾くクアトロ(訳者注:プエルトリコの複弦楽器)に合わせてお菓子の缶を叩いたのが最初だった。ホセが5才の頃、一家は仕事を求めてニューヨークに移り住んだ。6才になったホセはコンサーティーナ(訳者注:アコーディオンの一種)を弾き始めた。手持ちのレコードが音楽教師代わりだ。8才、パブリックスクール57で同級生の前で演奏し、9才の時にはブロンクスのプエルトリカン・シアターで演奏した。そして、彼の思いはアコーディオン演奏から大きく飛躍し、ギターを弾き始めることを一大決心。今度もやはりレコードを唯一の音楽教師とし、一日に14時間の練習を積んだ。50年代のロックンロールの電撃的な登場が、ホセに歌への衝動をもたらしたのだ。
17才の時、ホセは学校を辞めた。当時父親が失業中で、少しでも家計を助けたいと思っていたホセは、グリニッジ・ヴィレッジのカフェで演奏してお金を稼いだ。客席に帽子をまわしてチップを入れてもらう、その時代のそういう場所ではごく当たり前のやり方だ。ボストンからクリーヴランド、デトロイト、シカゴ、コロラド。あちこちのカフェやクラブで演奏した。ある時、ニューヨークタイムズの音楽批評家がガーズ・フォークシティでのホセの演奏を記事にした。記事はホセについて「比類ないスタイルで、6本の弦を弄び、駆け抜け、転がり、打ち、反射する10本指の魔術師」と書き、さらに「大スターの誕生を目撃したいのなら、明晩フェリシアーノ氏が去る前に、ここに聴きに来ることだ」と続けた。ちょうどその頃、RCAのディレクター、ジャック・ソマーはあるトリオバンドのオーディションのためにグリニッジ・ヴィレッジを訪れていた。そしてたまたまホセの演奏を目にしたジャックは、そのトリオバンドの件は後にまわし、ホセとの契約を決めたのだった。これが、言ってみれば、スター誕生の瞬間であったのだ。