2014.06.07 | 読み物/訳文

ホセ・フェリシアーノ バイオグラフィー(1)

José Feliciano Biography (1)

以下の文章は、私の敬愛するギタリスト/シンガーソングライター - ホセ・フェリシアーノの公式ウェブサイトに掲載されているバイオグラフィー(スペイン語テキスト)を日本語に訳したものです。日本語資料の少ないホセ・フェリシアーノの生い立ちから音楽的業績、近年のリリース作品や現在の活動に至るまでが詳細に記されています。嬉しいことに近年は来日公演もマメに行ってくれて、その神々しいオーラを間近に感じることもできるのです。
※原文はこちらです→ http://josefeliciano.com/wp/biography-spanish/
 

フェリシアーノ~その名は“音楽”そのもの

Grand Gala du Disque in RAI Amsterdam. Jose Feliciano

彼の名は「世代をまたいでポピュラー音楽に影響を及ぼしたワールドワイドな存在」と同義である。比類ない独自の方法で「異なる音楽スタイルの架け橋」となった存在。そうも言える。ホセ・フェリシアーノは英語圏のポピュラー音楽シーンに躍り出た最初のラテンアメリカ系アーティストであり、まさに彼が、今日の米音楽シーンの最前線で活躍する大勢のラテンアメリカ系ミュージシャンたちに、その扉を開いたのである。

また、フェリシアーノは「現存する最も偉大なギタリスト」として世界中の音楽評論家からも賞賛されている。「音楽界のピカソ」と言われるホセ・フェリシアーノの偉業・功績は数かぎりない。45枚以上のゴールドディスク/プラチナディスクの獲得、19回のグラミーノミネート、そしてLARAS(ラテン・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス)の特別功労賞(ライフタイム・アチーヴメント)を含む9回のグラミー受賞。

名だたるスターたちとともにハリウッドのウォーク・オブ・フェームに刻まれたフェリシアーノの経歴は、文字どおり不朽である。ニューヨーク市では彼を称え、イーストハーレムのパブリックスクール155を「ホセ・フェリシアーノ舞台芸術学校」と改称。歴史と権威あるカトリック教会は、聖パトリック教会でローマ教皇からホセに「ナイト(騎士)」の称号を与えた。また、コネチカット州フェアフィールドのセイクリットハート大学からは、彼の音楽的・人道的な貢献に対して人文学の名誉学位が与えられた。

「ギタープレイヤー」誌は彼に「ベスト・ポップ・ギタリスト賞」を与え、彼を誌上の「偉大なるミュージシャン・ギャラリー」に加えた。「プレイボーイ」誌の読者アンケートでは、ジャズ&ロックの両部門でベストギタリストに選ばれた。そして1996年には、ビルボード誌の特別功労賞(ライフタイム・アチーヴメント)に選出された。

ひっきりなしのオファーを受け、ホセは著名なアーティストたちと共演したり、世界各国の要人たちの前で演奏してきた。ロンドン交響楽団、ロサンジェルス・フィルハーモニック、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団などの有名オーケストラとの共演も楽しんできた。ワールドワイドな有名テレビ番組にも出演。自身のアルバムはもちろん、テレビや映画、舞台のための楽曲もたくさん作り出してきた。

スター誕生の瞬間

1945年9月10日、プエルト・リコ中西部の山間の町ラレスの貧しい家に、11人兄弟のひとりとして生まれたホセは、生まれながらにして盲目であった。彼と音楽との睦まじい歴史の始まりは3才の時。叔父さんの弾くクアトロ(訳者注:プエルトリコの複弦楽器)に合わせてお菓子の缶を叩いたのが最初だった。ホセが5才の頃、一家は仕事を求めてニューヨークに移り住んだ。6才になったホセはコンサーティーナ(訳者注:アコーディオンの一種)を弾き始めた。手持ちのレコードが音楽教師代わりだ。8才、パブリックスクール57で同級生の前で演奏し、9才の時にはブロンクスのプエルトリカン・シアターで演奏した。そして、彼の思いはアコーディオン演奏から大きく飛躍し、ギターを弾き始めることを一大決心。今度もやはりレコードを唯一の音楽教師とし、一日に14時間の練習を積んだ。50年代のロックンロールの電撃的な登場が、ホセに歌への衝動をもたらしたのだ。

17才の時、ホセは学校を辞めた。当時父親が失業中で、少しでも家計を助けたいと思っていたホセは、グリニッジ・ヴィレッジのカフェで演奏してお金を稼いだ。客席に帽子をまわしてチップを入れてもらう、その時代のそういう場所ではごく当たり前のやり方だ。ボストンからクリーヴランド、デトロイト、シカゴ、コロラド。あちこちのカフェやクラブで演奏した。ある時、ニューヨークタイムズの音楽批評家がガーズ・フォークシティでのホセの演奏を記事にした。記事はホセについて「比類ないスタイルで、6本の弦を弄び、駆け抜け、転がり、打ち、反射する10本指の魔術師」と書き、さらに「大スターの誕生を目撃したいのなら、明晩フェリシアーノ氏が去る前に、ここに聴きに来ることだ」と続けた。ちょうどその頃、RCAのディレクター、ジャック・ソマーはあるトリオバンドのオーディションのためにグリニッジ・ヴィレッジを訪れていた。そしてたまたまホセの演奏を目にしたジャックは、そのトリオバンドの件は後にまわし、ホセとの契約を決めたのだった。これが、言ってみれば、スター誕生の瞬間であったのだ。

数々のヒットソング

ホセの音楽シーンにおける最初のチャンスは、スペイン語圏マーケットにおいてであった。1966年、アルゼンチンはマル・デル・プラタでの公演の後、ブエノスアイレスのRCAディレクターの考えで、ホセはアルゼンチンに留まりスペイン語のアルバムを録音することになった。「とはいえ、どんな内容のレコードを製作するか、誰もアイデアを持ってなかったんだ」とホセは回想する。「それで僕は、自分が幼い頃に親しんだ歌、ボレーロをとりあげてはどうかと提案したんだ」。ホセが歌い演奏する懐かしのボレーロは素晴らしいものだった。ファーストシングル「Poquita Fe」はスマッシュヒットとなり、「Usted」はさらに大きなヒットとなった。

ホセは往年のスタンダード曲をとりあげ、それらに新しい生命を吹き込んだ。10代の頃に身につけたR&Bやカントリー、ジャズ感覚が入り交じる変幻自在なボーカルによる至極のメロディーとクラシックギターという独自のスタイル。ホセの音楽性は当たり、彼はまたたくまにティーンのアイドルとなった。ホセが空港に到着したり、ホテルや街から発つとなると、そこには大勢のファンが集まり大混乱である。そして、さらに2枚の同じスタイルのアルバムが発売されるに至り、ホセ・フェリシアーノの名は南米から中米、メキシコ、カリブ諸国に知れ渡ることとなった。

中南米での成功後アメリカに凱旋したホセに、RCAのディレクターはプロデューサーのリック・ジャラードを引き合わせた。リックは最近のホセのコンサートで演奏を耳にした曲、ドアーズの「Light My Fire(ハートに火をつけて)」のレコーディングを提案した。

23才までにホセは、5つのグラミー賞ノミネートと、アルバム『Feliciano!』で2つのグラミーを受賞、世界各国で公演し、4つの言語でレコードを発売していた。しかしそれで満足することはなかった。ホセは役者にも挑戦しようと思い、その後の数年でいくつかのテレビドラマ――『燃えよ! カンフー』、『署長マクミラン』、『チコ・アンド・ザ・マン』などに出演を果たした。「とても楽しい経験だったよ」とホセは回想する。「でも、僕はミュージシャンなんだ。そう、言うまでもなく、ミュージシャンなんだよ」

ホセを語る上で欠かせない楽曲が3曲がある。ひとつは「Light My Fire(ハートに火をつけて)」。1968年にポップスチャートでトップ1を獲得した曲であり、この曲の出版社の言葉を借りれば、ホセの演奏がこの曲をスタンダードと呼ばれ得るものに変えたのである。そして次に、ヨーロッパ、アジア、南米で大ヒットした「Che Será(ケ・サラ)」。それからもちろん「Feliz Navidad(フェリス・ナビダー)」をはずすことはできない。今では毎年クリスマス・シーズンになると世界中で耳にする定番ソングであり、ASCAP(米国作曲家作詞家出版者協会)による「今世紀の偉大なホリデーソング25曲」に選出されたこともあり、現在iTunesでもダウンロードが絶えない人気曲だ。

他にもたくさんのホセの曲が世界中で親しまれている。日本でもヒットした「Rain(雨のささやき)」、テレビドラマ主題歌「Chico and the Man」、ママス&パパスの「California Dreamin'」、「Destiny」、ジョージ・ベンソンもとりあげた「Affirmation」、「Ay Cariño」、「Ponte A Cantar」、「Cuando El Amor Se Acaba」、「Porque Te Tengo Que Olvidar?」等々、あげればきりがない。その多くはホセのオリジナル曲である。1995年にホセはアカデミー賞受賞映画『ファーゴ』に特別出演し、オリジナルナンバー「Let’s Find Each Other Tonight」を披露している。パフォーマーとしてはもちろんのこと、ホセのコンポーザーとしての大きな才能を示す1曲である。