
日本語であれ外国語であれ、文法を学んでいるとどこかの段階で「命令」の用法を勉強することになる。
スペイン語の場合、命令を表すときには接続法現在(presente de subjuntivo)の形が使われる場合が多いが、近しい相手 tú(2人称単数)に対する肯定命令には、特別な命令形(imperativo)がある。
Bésame mucho(べサメ・ムーチョ)
このタイトルがスペイン語で「私にたくさんキスして」という意味であることは、わりとよく知られている。そしてこのタイトルと歌詞がスペイン語文法における「tú に対する肯定命令」そのものであることは、スペイン語学習者ならばよくわかると思う。
スペイン語命令法(Imperativo)のルールとして、次のような二つがある。
【1】tú に対する肯定命令は、規則動詞では直説法現在の3人称単数と同じ形になる
※ただし decir → di、hacer → haz、detener → detén など不規則なものもある。
【2】否定命令では、接続法現在を用いる
例えば、自分の子供に対して「ちゃんと勉強しなさい!」という場合は、動詞 estudiar を estudia と活用(直説法現在 3人称単数と同じ形)させて
¡Estudia mucho!
となるわけだ。
「Bésame mucho」の場合はどうか。まず「キスする」を意味する動詞 besar が、tú に対する肯定命令の形に変化する。
besa
これに「me 私に」という目的語が付く。肯定命令に目的格人称代名詞が付く場合は、動詞の後に結合する決まりがあるので
besame
という一語になる。この際に重要なことは、元の動詞のアクセントの位置を保つために最初の母音「e」にアクセント記号を付けなければならないこと。
bésame
スペイン語では、単語の強勢位置に一定の規則があり、それに従わない場合にはアクセント記号(´)を付ける。
① 母音またはn, sで終わる単語は最後から2番目の音節にアクセント
② n, s以外の子音で終わる単語は最後の音節にアクセント
③ 上記に当てはまらない場合はアクセント記号を付ける
結合後の besame は上記①に従うと真ん中の「a」にアクセントがくることになり、元の動詞 besa とアクセント位置が変わってしまう。そこで、元の動詞のアクセントを保つために③を適用してアクセント記号を付けましょう、というわけだ。

「命令形」はラブソングの歌詞に登場しやすい。
命令、というと言い方がキツイが、「振り向いて」とか「おしえて」など、お願い・懇願として相手に投げかける言葉は、文法的には命令なのである。
M.ポンセの名曲「Estrellita エストレリータ」も、語り手がお星さまに命令(お願い)する。
baja y dime si me quiere un poco
降りて来て、私に教えて
彼が少しでも私を想ってくれているのかを
〜 Estrellita (1912 Manuel M. Ponce)
baja と dime がそれ。
dime は decir(言う)の tú に対する肯定命令 di に目的格人称代名詞 me が付いたもの。
di + me → dime
decir → di は不規則な命令形なので、ここでは dice + me とはならない。
さて、冒頭では「【2】否定命令では、接続法現在を用いる」というルールにも触れた。この辺はスペイン語学習のテキストではおなじみのルール説明だ。否定命令というのは「忘れないで」とか「行かないで」といった「〜するな」という禁止の表現で、これもまたラブソングによく出てくるので、名曲の歌詞がサンプルになる。
以下の例では【1】【2】のルールが並列しているので、よりわかりやすい。メキシコの古い歌「シエリト・リンド」から。
Ay, ay, ay, ay
Canta y no llores
ああ、歌ってよ、泣かないで
〜 Cielito Lindo (1882 Quirino Mendoza y Cortés)
canta は肯定命令で、続く no llores が否定命令。否定命令では、まず no を置き、続く動詞「泣く llorar」を接続法現在の2人称単数形にする。
接続法(subjuntivo)は、願望や疑い・可能性・仮定など、話し手が「事実として確定していないもの」を扱うときなどに用いられるモードで、直接法(indicativo)とは活用が異なる。「君は泣かない」という単純な構文であれば直接法現在で no lloras だが、ここでは「泣かないで」という否定命令。これは一種の願望、つまり、泣いている君に対して「泣かない君であってほしい」と話し手が願っている表現とも捉えられるので、接続法現在で活用し、no llores となっているわけだ。
美しいメロディーゆえインストでもよく演奏される「アマポーラ」にも、否定命令と肯定命令(目的格人称代名詞付き)の印象的な歌詞がある。
no seas tan ingrata y ámame
そんなにつれなくしないで、私を愛しておくれ
〜 Amapola (1922 Luis Roldán)
seas は ser の接続法現在・2人称単数。
ámame は「愛する」の amar が、最初にとりあげた bésame とまったく同じように変化した形だ。
ama + me → ámame
言葉にしても、演奏にしても、ルールや理論を聞いただけではピンとこないのは自然なこと。多くの実例を経験・蓄積していくと、あらためてルールを確認した際に、なるほどね、と思えるものである。
「私たちのために時計を止めて」の歌詞で知られる「時計 El reloj」も命令法歌詞の名曲のひとつ。最後にこちらからも否定命令と肯定命令の一節を引用して本稿を締めくくることにする。
Reloj, no marques las horas
時計よ、時を刻まないで
Reloj, detén tu camino
時計よ、あなたの歩みを止めて
〜 El Reloj (1956 Roberto Cantoral)
※ detén は detener の tú に対する不規則な肯定命令形