アイルランド民謡「夏の名残のバラ The Last Rose of Summer」を原曲とする唱歌「庭の千草」は、明治17年の『小学唱歌集 第三編』で「菊」の題名で発表されました。
この日本で最初の唱歌集は、西洋の音楽を取り込み、子どもたちに「日本国民としての意識を持たせ、子どもの徳性を滋養する」という教育目的をもって作られました。
「菊」の歌詞は、文部省音楽取調掛の中心人物である伊沢修二氏が原詩の対訳と大まかな訳詞を作り、それを土台に、和学者として日本の伝統的文化と言葉に精通する里見義氏が推敲を重ねて日本語歌詞への翻案を行い、現在知られる格調高い歌詞が生まれました。
現在では、発表時の題名「菊」で呼ばれることはなく、歌い出しの歌詞「庭の千草」がタイトルとなっています。
歌い出しの歌詞がそのまま正式タイトル、あるいは通称となっている曲は数多くあります。同じ時代の小学唱歌「仰げば尊し」も「蛍の光」も、歌の主題というよりも最初の歌詞がそのまま題名となっています。
当時、唱歌は学校で習い歌うものでした。だとすれば、人が最も意識的になるのは歌の始まりの歌詞です。始まりの歌詞が、その歌を指し示し他の歌と区別するためのインデックスの役割を果たすようになるのは、自然なことだったかもしれません。歌詞はスラスラと出てくるけれど題名は知らない。“愛唱歌”というのはえてしてそういうものです。
「故郷を離るる歌」という題名を知らなくても《園のさゆりナデシコ 垣根の千草》は歌えます。「思い出」という題名にはピンとこないとしても《垣に赤い花咲く》と聞けば、ああ、あの歌ね、となります。「七里ヶ浜の哀歌」はその正題よりも「真白き富士の根」として親しまれています。
情報メディアが発達し、高度な検索が可能になった現代においては、題名のみにインデックスの役割を負わせる必要がなくなりました。そのため、歌の主題を指し示す題名付けができるのはもちろん、表記に凝ってみたり、意図的にかなり長い題名にしたり、題名も含めて表現の一部とすることができます。極端に言えば、内容と関係のない題名をつけても問題ないわけです。
【参考文献】
遠藤宏・著『明治音楽史考』(有朋堂)
佐々木満子・著『小学唱歌 庭の千草考』(学苑 平成4年8・9月合併号 昭和女子大学近代文化研究所)
堀内敬三・著『日本の唱歌:定本』(実業之日本社)
※国立国会図書館デジタルコレクション

