フランス映画『巴里の屋根の下』(1930 ルネ・クレール監督)になぞらえたタイトル、ハイカツさんの明るい歌声、管弦楽団によるジャズ風味の演奏は映画のオープニングさながら。
高台あるいは空から俯瞰する東京の街並みと、その街に暮らす“若いぼくら”の主観的な視点が行き来するような、言葉によるおしゃれなカメラワークをひとことで実現しているのが「屋根の下」というタイトルなのだと感じます。
そして「プロムナード」「セレナーデ」「パラダイス」などの外来語が次々に登場し、日比谷、上野、銀座、新宿、浅草、神田といった街の様子に華やかな色をそえています。
そうした色鮮やかな要素と演出の中で、聴く者の心をグッととらえるのが「なんにもなくてもよい」という一節です。この歌の「若いぼくら」はおそらく物質的に満たされているわけではありません。それでも彼らが「幸せもの」といえるのは、未来への希望や過ぎし日への懐かしさを、自由に感じながら生きているからなのでしょう。
昭和22年の早春、作曲家・服部良一氏が金沢・兼六園周辺を歩いているとき、同時にふたつのメロディーが頭に浮かんできた。そのうちのひとつが「東京の屋根の下」だったというエピソード(参照元は金沢蓄音器館の「館長ブログ」その111「新しい風は金沢から」)に「胸の振子」の頁でふれました。
そのエピソードや歌詞の文字数などから予想するに、おそらくこの歌は先に旋律ができていて、そこに後から歌詞をのせたのだと思います。変ロ長調で終始明るく軽快に進む曲の中で、一行だけ、平行する短調へと向かって歌い上げる少し切ない旋律。そこに「なんにもなくてもよい」というひと言。ここを聴くたび歌うたびに、筆者はほとんど感涙を禁じえないというのも大げさではないのです。